『ボーはおそれている』ネタバレ考察

ボウは精神病であることが示唆されていることから、劇中の描写は必ずしも正しい認知とは限らない。

 

 

1.アパートメント

 

ボウは——あるいはあらゆる人間は——その人生を「産道」と「膣」から始める。母親の支配の元に/支配から逃れるために産まれる。

 

ボウが騒音のクレームを受けるのは正しい認知と思われる。紙を入れた者が騒音を出し始めた可能性も(その場合脳内ではずっと鳴り響いていたのであろう)、紙を入れた者と騒音を出す者が別人でいる可能性もある。

これすらも誤った認知で、「紙は入れられていない」や「騒音は鳴っていない」可能性もある。

 

鍵を盗まれたのは実際に映像として使われているから事実だろう。ボウは実際に里帰りするつもりだった。

しかし、ボウの認知が狂っていることが後に明かされるので、深層心理で帰りたくない(母の死を餌にしなければ帰らないくらいだ)ボウが見た幻覚だったり、そもそも最初からチケットは取っていない可能性もある。母親のカードを使っているようなので、明細を見ればすぐに分かるだろう。が、「チケットを買って使わなかった」という可能性もある。

母親からの叱責は、観客からは誤りに見える。しかし、これまでの映像が嘘なら母親の方が正しいことになる。いずれにせよ、母親がボウを暴力でコントロールしようとしていることは事実だろう。

 

ホームレスたちがアパートに侵入したのは事実だと思われる。少なくとも、ヤク中が自室の前で死んでいたのは事実だろう。

しかし、保護されたボウが「自分の部屋にいない理由」を作るために遡及して記憶を捏造した可能性もある。最後の審判で言及されたホームレスは路上で、この一連のシーンは議論されていない。

 

 

2.軟禁

 

交通事故の直後のシーンはボウの記憶が飛んでいる。従って、交通事故すらも嘘の可能性がある。

医者夫婦は(というより本作自体が)明らかに『トゥルーマン・ショー』を下敷きにしている。つまり、軟禁されているのは母親の意志だ。あるいは夫婦以外にもあらゆる人間がボウを監視している。

ボウが自分の人生とその後を見るのは、後の演劇と同じく、「母親の支配から逃れた人生」を夢見たということだろう。実際にはあんなチャンネルは存在しないが、母親は見ている、見られている。

 

 

3.劇団

 

森の孤児のパートは分かりやすく「現実」が描かれている。ボウが妄想していた演劇と乖離した実際の演劇を見るシーンがそれに当たる。本作で唯一といっていい、現実と妄想の正解が描かれている。

妄想パートは前述のとおり、「母のいない人生」だ。死の恐怖=母親による去勢を脱し幸せな家族を手にする。しかし、幸福を感じたことのないボウはそれを連続して維持できないので離ればなれになる(夢ではしばし未体験や信じられないものは強制力によって描かれなくなる。例えば夢の中で本を捲っても、ページには何も書かれていなかったりする=脳が描画で処理落ちしている)。童貞が夢の中で挿入の直前で行為を邪魔されるように、ボウは妄想の中ですら子作りができていない。その事実=現実=母親による去勢に気付いた瞬間、ボウは目覚める。

退役軍人に襲われるパートは事実とも、ボウが逃げるための口実とも読める。

 

 

4.母の家

 

「気に病まないで」という言葉は、自身が家政婦を殺してしまったことに対してだろう。実際に家政婦は死んでおり、死が偽装されている。

 

広告により、ボウが何らかの精神病である可能性が示唆される。しかし、これはただの広告に過ぎない。実際にボウがこの病気であるとは一言も言ってない。

 

屋根裏のシーンは、監禁されている父親を見たショックで、あるいは父親が醜悪な性であると認識して(例えば勃起しているとか)、怪物を幻視したのだろう。

ここだけファンタジーで、あの怪物が実在していると考えても構わないが。

「夢ではなく記憶である」と言われている以上、ボウは幼少期に同じ光景を見ているはずだ。ただ父親が監禁されていることに恐怖した可能性もあるが、それだけでトラウマになるとは考えにくく、それ以上の何かを見た可能性はある。

 

母親は全てを知っているが、それは前述のとおり、周囲の人間に監視させたからだろう。母親は神の視点を持っていない。

最後の審判のシーンでは、神の視点が用いられている。従って、このシーンは現実ではなく、ボウの呵責による精神世界としか考えられない。ここでは無意識に、正しい認知の情報だけが使われていると考えるのが妥当である。

 

ラストシーンの転覆は、羊水、つまり胎内回帰のメタファー。母親の元に帰りたい(生きてほしい)が、それは暗く冷たい。何より、起き上がることはなくボウは溺れる。つまり、母親は死んでいる(支配から抜け出し自立しなければいけない)。

過保護で監視する母親から逃げたいと思っているが、おそらく無職のボウは抜け出すことができない。しかし、深層心理では母親に死んでほしい=自立したいと思っている。だが、現実には本当に母親が死んでしまえばボウは人生を一人で生きることはできない。母親はガラスに衝突して死んでいる。そのことを、そしてその後の人生を考えたくないから、ボウは水面から顔を出さず心を閉じたまま、映画は終わってしまう。

 

 

——というのは全部嘘です。

 

いや、嘘ではないが、

・・・・・・・・・

考察する必要がない

 

本作では、ボウは最後まで正しい認知を持たない。何故なら「認知を正して生きる」ことを選ばず、心を閉じて終わるバッドエンドだから。

ラストシーン……つまり審判が精神世界であることと、母親が死んでいることは事実だろう。だが、それすらも劇中で実際に描写されることはない。観客が汲み取る必要がある。

しかし、観客がいくら考えたところで、答えはあえて描かれていない。

 

難解とかではなく、考察する意味がない。

現実を描かずに終わる試みは理解できるが、それならこちらが歩み寄る意味がない。現に私がやったように、全ての描写を精査して現実と妄想に分類することができる。しかし、劇中でその答え合わせがないし、「ないべきである」として終わる以上、全ての思索は無駄である。

 

つまり、『ボーはおそれている』を観て考察だの解釈だのをやってる奴は全員馬鹿だ。

描写が理解できないのではなく、意味がなく、無価値に作られているだけ。考察をしたりそれをありがたがってる奴らは恥を知れ